ファミリーの1歩先には親子スタイル

子供の携帯電話の所持を行政が規制することの是非

 この記事をほぼ書きあがったタイミングで、ちょうど橋本府知事が携帯電話を学校へ持ってくることを禁止するという声明を出した。
 私はあまり時事問題について語るのは好きではないのだが、期せずしてタイムリーな話題になったわけである。
 
 さて、「学校裏サイト」「プロフ」などによる個人攻撃、有害サイトの問題がクローズアップされている。
 だから、携帯電話を買い与えてはいけない。という論調が現在盛んだ。子供の携帯の所持を規制する自治体の言い分もまさにこれである。
 「だから、携帯は与えてはいけない」「いやいや、フィルタリングによってブロックしてやればいい」「いやいや、それでもフィルターの網をくぐって裏サイトはドンドン作られる。」「もっと厳しくフィルタリングをかけるようにしよう。」
 といった議論が堂々巡りでなされている。

 この論点はもちろん重要なのではあるが、これは問題のほんの一部であり、最大の問題はほとんど議論されていないと私は考えている。

 未成年の頃にはもっと他にすべきことがある。

 精神の発達の途上においては、精神的な営みに時間を費やすべきなのだ。
 書物を精読する、絵画を描く、音楽に熱中する。
 その結果構築される精神の核は一生の財産となる。
 これらの営みを行うためには、まとまった時間が必要であることは皆さんも同意されると思う。
 
 5分間の細切れが12回あったとしても、1時間分の読書はできない。
 絵画を描くためには、描画される世界をまず自分の内面に取り込んだ後、今度は逆に外界に展開するために「描く」という作業を行う。内面世界に対象を保持し続ける持続時間が必要だ。
 音楽に熱中することも、音楽で語られているテーマを自分の中に取り込んだ後、自分の感情と重ね合わせることによる。れも音楽で語られる世界に没入するだけの時間がいる。
 
 これらの営為は、言い換えれば「持続する自己」との対話と言える。
 孤独な持続する対話を通じて、人間は人間としての己自身を作り上げる。

 携帯電話はこの持続する時間を、決定的に奪ってしまうことが問題なのだ。
 携帯はいつでも手元にあるが故に、電話がかかってくる、メールがやってくることに対して即座に応対することが求められる。
 かくして、現代人は携帯電話という束縛によって「自分ひとりである」貴重な時間を奪われる。
 結果、堅固な自己像を確立することに失敗する。強固な精神の土台がないため上に何かを積み上げることができない。ニートの増加は携帯電話の普及が大きく関係していると私は考えている。
 
 さて、この私の主張に対しいくつかの反論が考えられる。


 
■さてまず第1の反論である。
「携帯を使うルールを決めればいいではないか?たとえば、18時から21時は使わないとか。」

 少々難儀な話になるが、ご勘弁をいただきたい。
「正常な判断力を持つ成人は、他人の迷惑にならなければ、自分にとって不利益になることであっても行ってかまわない。」
 
 これが自由主義と呼ばれるものの根幹を成す「自己決定権」というものの考え方である。

 重要なのは、正常な判断力を持つ「成人」であることだ。 
 大人が自分の体にとって害のある飲酒喫煙をすることが法律上許されているのは、自己決定権があるからというのが自由主義から導かれる原則。そんなわけで、未成年者は法律上飲酒、喫煙が認められないわけである(未成年者は飲酒喫煙の害が大きいという理由もあるが、これだけでは合理的な説明にはならない。大人だったら害がないあるいは非常に少ないというのであれば理由になりうるが、大人であっても禁煙の害は非常に大きいためだ)。

 自分自身が成長するために必要な貴重な時間を、手放す行為は自己にとって不利益である。
 それと引き換えに携帯電話による利便性を手に入れる。
 利便性と、精神の成長という二つの価値はどちらが高いのか?答えは自明だろう。

 未成年者はまだ判断力が不十分なため、自らが不利益になる決定を下すことを、保護者は認めてはならない。
 未成年者は、判断力が不十分な故に保護者という後見人がいるわけだ。未成年者でも判断力が充分にあると考えられるのであれば、それにふさわしく法律行為ができるはずだが、現実には認められていない。
 未成年者は大人と同様の判断力があると考えられていないためである。
 1日メールは10通以内、家では即レスしないとか決めても、そのように守れるとは限らない。いつも肌身離さず持っているものを使わないと決めて守るのは非常に難しく、おぼれやすいものだ。統計では5時間以上携帯を使っている人も10%以上存在する。このような生活を未成年のうちに送ったら、正常な精神の発達そのものが阻害されかねないという危うさを常に秘めている。

■第2の反論としては、
「高校生ぐらいになれば、相応の判断力も伴っているからよかろう。」
 という反論もあろう。
 しかしながら、これも同じ理由により却下されざるを得ない。
 相応の判断力があるとみなせるのであれば、選挙権がないのは矛盾する。

■第3の反論である。
「携帯を子供に持たせることは、いつでも居場所がつかめるし安全につながる。」
 しかし、これはほとんどの場合は単なる子供に携帯を持たせることに対する、一種の言い訳に過ぎない。
 それであれば、通話できる番号を3つに限定している携帯電話も市販されている。3つあれば自宅、父親と母親の携帯にかけることができ、充分である。このような携帯を持たせるのであればなんら問題はない。
 しかし、このような携帯はほとんど普及していないというのは、やはり売れないのである。つまり、子供のことが心配だから携帯を持たせるというのはたいていは嘘である。
 真の理由は、子供が欲しがるけど、何となく買いたくない。だから、買い与えることを親自身が納得できる理由が欲しい。ということに尽きる。

■第4の反論としてはこんなものがある。
 どのみち大人になったら、携帯というものでコミュニケーションをとらなくてはならないのだから、子供のうちから訓練したほうがいい。という主張だ。
 しかし、これはまったくもってナンセンスで、われわれの世代は大人になってから携帯を持つようになっているが、別に不便は感じないし、携帯があることによる人間関係の距離感のとり方などは特段に難しいものでもない。
 人間は人間と生のコミュニケーションをとることで、距離感のとり方、人間関係の構築のすべを学ぶ。
 携帯は一種のコミュニケーションのツールに過ぎない。生の人間関係で知恵を培うことだけが重要で、知恵を培えば携帯でのコミュニケーションにもなんら問題はない。
 電話をするときに他人の都合を考えるとか、人の言うことに耳を傾けるとかそういったことは当り前で、携帯があろうがなかろうが関係ない。

 ほんの10年ちょっと前は家の電話で話をするのが普通であった。
 家の電話は家族の共有であり、そこで話す内容は否が応でも家族の耳に入った。
 電話は唯一の家の中にある外界と開かれた世界であった。

 子供が他人とどんなことを話しているのか?どんな口の利き方をしているのか?を親は知ることができた。口の利き方がなっていなければ親はあとで注意したりすることができる。
 携帯の普及により子供が他人とコミュニケーションをとっている内容を知る機会が喪失したことは、家でのしつけの機会を大きく奪った。
 むしろ正常なコミュニケーションの方法を親が教えてやる機会を奪ったという意味で、携帯はコミュニケーション能力の減少につながっていると私は考えている。
 
■最後の反論である。
「携帯を友達がみんな持っているから、持っていないと仲間はずれになる。疎外感を味わうことになる。」
 これこそが問題である。携帯を持つことの利便性による利益は、おぼれてしまうことによる危険性や不利益にははるかに及ばない。
 しかし、友人たちというコミュニティから締め出される不利益は、これよりも大きい可能性がある。実際に、高校生の96%が携帯を所有するという状況では、持っていないことの不利益、疎外感は大きい。携帯を買ってやることもやむを得ないという結論に至る。

 そこで結論である。
 子供に携帯を買ってやることは現状においては必要悪だ。
 大いなる不利益をもたらすかもしれないことを承知していたとしても、買ってやるしかない状況に我々は直面している。
 
 行政が子供に携帯を所持させることを一律に禁止すれば、持っていないことによる仲間はずれという最大の不利益を回避することができるのである。

 (文責 田村義隆でした)

親子スタイルアドバイス
■お勧めの対象 携帯電話を子供に与えるか悩んでいるご両親
■コメント この論はあくまで著者の見解であり、親子スタイル全体の意見を代表するものではありません
※当サイトのコラムはスタッフ個々の私的な見解及び文責にて公開されております。
ポチッと一票↓↓↓お願いします
人気ブログランキングへ にほんブログ村 子育てブログ 第2次反
抗期(思春期)へ
  • 携帯電話 倫理学 自由主義 愚行権 未成年 判断力
カテゴリ一覧