オトナの立場になると、お正月の退屈ほどゼイタクでアリガタイものはないなあ、とつくづく思うようになりました。そもそも「退屈」なんぞは有閑階級の悩みですからね。
考えてみれば、ぼくが子どもの頃、お正月はとんでもなく退屈な時間だったと記憶しています。
しぶしぶオトナの宴席に顔を出し、お年玉をもらったところでお店は開いていない。遊ぼうにも親戚のちびっこ相手では大富豪とか人生ゲームとかエキサイティングなものはできず、しかたなく坊主めくりや福笑いや凧揚げにつきあう。(ブツブツいいながらも、それなりに熱くなったりするのですが・・・。)
さすがにお年頃になると、退屈に耐えられず、大晦日から抜け出すというパターンになりました。今思えば、携帯もコンビニもないのにどこをほっつき歩いていたのか不思議です。
我が家のお正月もここ数年は、孫連中が祖父母(ぼくらの父母ですね)の家に集まるパターンが続いています。
集合した子どもたちは、年末から三ケ日まで連日連夜のゲーム大会です。
最近のゲームは4,5人の対戦型なので、幼稚園児から高校生までが同じゲームをやっている。しかも、幼稚園児もかなり強くてまったくハンデというものがない。(ただしオトナの反射神経では惨敗必至です。)
息子を含めた中高生のいとこ連中も、いっこうに出かける気配はありません。そしてゲームの合間は携帯をいじり続けている。メールも普段と変わらずだらだらと続けているので、まったく「あけおめメール」ですらありません。
お年頃の中高生が幼稚園児とまったりゲームしつづけているお正月って、何なのでしょう?
今年あたりは、携帯の発信規制騒ぎもほとんどなかったみたいですし、紅白の視聴率も上がったとか。世間もますます家にこもってるようです。リオさんご報告のおウチデートも事情は同じみたいですね。
オトナにとっても目の届くところにいてくれれば好都合なので、肯定も否定もできないけれど、「なんか違うな」という感じは否めません。
ぼくは「書を捨てよ、町へ出よう」(寺山修二)の世代でもないのですが、思春期なんぞは、「刺激のない退屈こそが諸悪の根源だ」くらいの思いがあった気がします。ところが、子どもたちをみていると、ゲームと携帯さえあればヒマも退屈も存在しないかのように見えます。
買い与えたメディアの功罪はいろいろとありますが、オトナの都合と引き換えに、子どもから「退屈な時間」を奪ってるのかも、と思ったのでした。
(せきね けんいち)
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幼稚園~高校生までゲームですか。
それはまた幅広いですね。
小さい子にしてみればおにいちゃんと遊んでもらえるのは楽しいでしょうね。
でもおっしゃるように「家でなんか遊んでられるか!」って言うのが思春期ですよね。家の中でバーチャルな世界で遊んでばかりで得られるものは限りがありますよね。
うちの場合はおうちデートも週1くらいなのでとりあえずは許容範囲です(だらだらしなければね)
確かにそうですね!
昔って、正月って退屈でしたね!
久しぶりに思い出しました。こんな記事を読んで退屈を思い出したのでとてもうれしいです。
正月は店はやってないし、いつも見ているテレビ番組もやってなくって、子供心には面白くない正月番組ばっかり。
観光地もやってなかったり、いつも一緒に遊んでいる子供も帰省したりしていないし。
ものすごい閉塞感に日本中包まれていたのがかつてのお正月。
でもそんな閉塞感、退屈、言い換えればおこもり感、それが正月の醍醐味だった気がするのです。
退屈に向き合うっていうことが少なくなりました。
まず、コンビニが普及して正月は困らなくなりましたし、ゲームがあれば普段と同じように遊べる。デパートもスーパーもショッピングセンターも営業している。正月は普段と変わらなくなりました。実に寂しいなあって思う次第です。
かのジョージ・ルーカス監督が、
「ぼくが観たい映画を誰も作らないから映画監督になった」
と言った、と聞いたことがあるのですが、必要は発明の母、退屈は刺激の元ですよね。
遊閑の境地に達することができないのであれば、退屈をいかに避けるか、考え出すのもひとつの生産的行動ですからねえ。
モモ、懐かしいです。小学生のころに何度も読みました。