ファミリーの1歩先には親子スタイル

白黒をつけたがる態度について(後編)

視点を転じてみる。

そもそも個人が犯した犯罪を報道する必要が、どこにあるのだろうか?という疑問がある。国家が犯した犯罪を報道することは、国民の知る権利として重要だ。しかし、個人が犯した犯罪を知る権利が我々にあるのだろうか?

犯罪現場、火災の現場、交通事故の現場には人だかりができる。これと同じで単に野次馬的興味に過ぎないのではないか?マスコミは野次馬的興味を満足させることで、ビジネスを成り立たせてきたのではないか?と、私は考えている。

個人が犯した犯罪を報道することの利益よりも、むしろ害悪のほうがはるかに大きいかもしれない。

無差別殺人は流行する傾向がある。それはなぜ流行するのかは別の機会に述べようと思うのでおいておくが、マスコミが報道しなければ模倣犯は生まれない。
自殺も同様で、芸能人が自殺したり、哲学的な自殺などが報じられると、模倣による自殺者が発生する。
殺人を犯す、自殺をするというのはもちろん個人の責任なのであるが、マスコミが報道しなければ発生しない事件は多数存在する。マスコミに責任がないということは決して言えない。

さて、まとめてみよう。

  • 実名を公開されてしまうことは、社会名誉を奪う刑を科すのと同じであるが、有罪が確定していないのに実施されてよいのだろうか?
  • どれだけ大きく報道するかはマスコミの自由に任されているが、このことは個人の名誉をどれだけ奪うかという量刑の決定権を持っているということに等しい。量刑について正当な手続きなしで決定されることが許されていいのか?
  • 有罪が確定したとしても、本当にその人が罪を犯したとは言い切れない場合がある。それであれば、同様に実名を公開することは許されないのではないか?
  • 実名報道をおこなうことにより、家族や親戚なども同様に苛烈な不利益をこうむるが、本人以外の名誉を奪うという刑罰は許容されていいのか?
  • どのニュースを報道するかはマスコミの自由に任されており、場合によっては恣意的に個人を社会的に抹殺することも可能である。
  • そもそも個人の犯罪を報道する必要があるのか?
  • 犯罪を報道することで模倣犯が発生する可能性がある。

というような問題点は顕在化せずに存在しているのである。

少年の実名報道云々という前に、これらの問題が内在していることを少しでも考えれば、軽々しく発言できないはずである。


前置きが非常に長くなった。

一見簡単に見える問題であっても、掘り下げて考えることで難しい問題が内在していることがほとんどである。
我々は普段、内在する問題まで深く考えることなく様々な発言をおこなっている。
また、白か黒かで割り切った発言をする人の方が、分かりやすい、正義の味方として思われたりする。
こういう風潮に対して、心の底から警戒をしなくてはならないというのが私のポリシーである。

様々な立場を考慮して発言しようとすると、どうしても歯切れが悪くなったりする。しかし、この歯切れの悪さというのは誠実さの表れだと思っている。
言いよどんで結局言えなかった言葉とか、表現できなかったニュアンスとは、切り捨ててしまってはいけないと思いやる愛そのものだと私は考えている。

私は、子供に対して政治や社会問題などの話をするときに、反対側の立場、様々な別の立場の意見も一緒に伝えるように心がけている。
常に反対の人、少数派の人、声の小さい人のことも考える人になってもらいたいのである。

そしてもう一つ重要だと考えていることがある。

絶対的に正しいということはない。という思考停止に陥らないようにすることだ。
正しいものはない、すべてが一面にでは真理だという態度になってしまうと、考えることが無駄だということになってしまう。これもまた、同じぐらい危険なことである。
なぜならば、このような思考になってしまうと、不正義がなされたとしても不正義だと思わなくなってしまうからである。

大切なことは、正しいということはあるに違いないと信じて、考えることを止めないことである。

なので、子供に様々な立場を説明した後で、「私はこう思う」ということを必ず話すようにしているのである。

(文責:田村義隆)

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