ファミリーの1歩先には親子スタイル

クリスマスのしみったれた童話

マッチ売りの少女、フランダースの犬、そしてクリスマス・キャロル。
クリスマスだというのに、貧乏で悲惨なお話の数々。子どもの頃「そうゆう系」のお話をどう思っていましたか?

泣ける話大好きっ!みたいな方もいたかもしれませんが、ぼくは「なんでいい人がサンタも来ないで死んじゃうわけ?外国はサンタの本場じゃないのか?!」と、納得できなかったクチです。


今年のディズニーのクリスマス映画は、ディケンズのクリスマス・キャロル。小学校以来の「納得できない」先入観もあって気がすすまななったのですが、天下のディズニーがこの稼ぎ時になぜ「しみったれたそうゆう系なの?!」の興味だけという、不純な動機で観にいってしまいました。

大体が、キャッチコピーが「未来は、まだ変えられるかもしれない」。まさに「Yes, we can.」の空気ですね。あれえ、「ケチは嫌われる」みたいな話じゃなかったっけかなあ。

細かいところでは、「なんでCGなの?」というのもありました。(しかもアヒルじゃないしキャラがキモい。) その上、気の遠くなるような手間がかかる「パフォーマンス・キャプチャー(実写撮影をトレースしてアニメにする)」を全編でやるような作品は、それなりの強固な演出意図があるもんです。

で、ストーリーは原作に忠実というか、なんのひねりもありません。むしろ、セリフには発表当時の空気を再現している感じがあります。そしてCGは、19世紀ヴィクトリア朝時代のロンドンの路地と人々を、非常なディテールで再現するために使われています。狙いは、産業革命と帝国主義の「裏側の現実をきっちり描き切ること」にあったことがわかるはずです。(説明するよりみるのが早いんですけどねえ。)

つまり、「そうゆう系」の舞台は、どれもおとぎの国ではなく、同じ19世紀のヨーロッパ列強の現実の歴史です。そこに描かれている悲劇もまた、おおむね現実だったはず。精霊や天使こそいないでしょうが、宗教的な博愛精神は社会思想として健在で、当時に書かれたこれらの作品は、まさに社会を変えようとする行動そのものだったわけです。

校庭にタイムカプセル埋めてたガキだったぼくは、スクルージの過去と未来、アントワープの荘厳な大聖堂や、コペンハーゲの幸せそうな家族が、どんな意味だかまったく想像もつきませんでした。それから実に三十数年経って、恥ずかしながらようやくわかった気がしたのでした。

いまどき、クリスマス・キャロルを「ケチは嫌われる」話と解釈する子どもは少ないかもしれません。
だからといって、「格差と貧困は自分で何とかするっきゃない」みたいな話、と小学生に解釈されても、ぼくはたぶんうれしくないでしょう。

(せきね けんいち)

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