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戸塚ヨットスクールが求められている

茨城県土浦市の荒川沖駅の連続殺傷事件は皆さんも覚えていることだろう。
そしてまた、収監されてからの容疑者の言動について苛立ちを感じている人も多いと思う。

私はこの問題は非常に根が深く、現代の病理を端的に表している事件だと考えている。
その理由は、この犯罪を犯した青年が特殊な人物だと思えないからである。

現代人に蔓延する仮想的有能感がこのような犯罪を引き起こしたというのが自分の考えである。

仮想的有能感とは、実際には社会的に何も評価されうるものがないにもかかわらず、他人を見下すことで自分自身の自我を保とうという一種の心の状態だ。
何の根拠もなしに「俺以外みんな馬鹿」って思っているっていう状態。ところが、これは自信のなさの裏返しなので、内面は非常に傷つきやすい。もし、この仮想的有能感に対して、批判をするものがあれば敵意をむき出しにする。

キレやすかったという高校時代の知人たちの証言はそれを示しているのではないか?
彼が妹を殺そうと思ったというのは、彼のことをおそらく日常的に馬鹿にしていたためだろう。そのこと自体が彼の自我の存在の基盤を根本的に危険にさらしていたのではないか?
当初は大学への進学を希望していたというが、それに挫折し、就職ということになり、それまで抱いていた有能感は完全に仮想的有能感に取って代わらざるを得なかった。就職活動をしなかったということだが、それは当然だろう。
大学に学力的に行けないがために就職するなんてことをプライドが認めないのだ。

ついにあの凶行に至ったのは、仮想的有能感と現実のギャップが耐えがたくなるほどまでに広がってしまったためだというのが私の仮説である。
有能感を持っている彼は実際のところ、社会的には何の意味、あるいはなんら価値として評価されることもないニートであるという現実。

そんな彼であるが社会的に大きな力を持つ手段が実際に一つだけあった。
殺人しかも大量虐殺とも言うべき殺人である。
もともとは小学校に行って殺したかったというのは、無抵抗で逃げる足の遅い小学生であれば大量に殺すことが出来たからだ。それが卒業式という大人がたくさん集まっている場で実行が不可能だったので、次善の策としてあのような行きずりの殺人になったというわけだ。
本当は、何十人出来ることなら何百人、さらに言うならば大量破壊兵器でも持っていたら使いたかったことだろう。
もし、今の報道の様子を見ることが出来たらさぞかし愉快に思うに違いない。
「反省の言葉はなかった。」って当たり前である。


現実と仮想のギャップが大きくなって、これが是正されなければこのような犯罪を起こしうる人はたくさん存在すると思う。
是正する仕組みとして、現在の日本には戸塚ヨットスクールが必要なのかも知れない。

確かに戸塚ヨットスクールは何人もの死者を出した。これはよくない。当たり前である。
しかし、戸塚校長の語っていた理念は明確でかつ科学的だ。

今まで他人に対して暴力で従えようとしていた人、わがままな人、などは他人との関係で自我を押し通そうとすることで他人を不幸にし、かつ心が荒廃して自らも不幸になっていたわけだ。


人間がいかにふてくされようと、わがままを言おうとヨットは進まない。
自分の力で自分自身の力で支えようとしない限り、ヨットは沈んでしまう。
沈んだら溺れる。場合によっては溺死する。
今までわがままを言ったりしていた人であっても、自分自身の力でがんばらざるを得ない。
初めて真実の自己に向かい合う。
誰からも助けてもらえない極限状態にあって、他者に対してもっていたこだわりを捨てて、裸一つの自分を初めて発見できるというわけだ。


というような理屈である。

これは非常に分かりやすい。
ある意味、仏教の我執を捨てろという教えに通じる。
我執とは今回の場合「仮想的有能感」に他ならない。

戸塚ヨットはすでにないし、またあったとしても実際に生命に危険がある教育は肯定されるべきではない。となれば、今世紀の知恵を結集して新たなこれに変わるものを作るべきだと思う次第なのである。

文責 田村義隆

※当サイトのコラムはスタッフ個々の私的な見解及び文責にて公開されております。
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  • 戸塚ヨットスクール 極限 仮想的有能感
[田村 義隆]
(2010年05月17日 22:32) 個別ページ
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