ここ数日、暑いと思ったら5月の真夏日は6年ぶりだとか。そうかあ、もうすぐ夏だー!海だー!バカヤローだー!「××」だー!
「××」は、21世紀となってはとても口に出せないコトバです。
それこそ思春期・青年期を包括する便利なコトバなのに、どうにも使うのがはばかれる死語。さらには、団塊世代が著作権を独占しているように思えるのも、しゃくに障る・・・。
そうです。「青春」というコトバ。
人それぞれの思いがあっていいし、けっして悪いコトバではないので、偏屈に定義するのもとてももったいない気もします。
なのに実際には完全な死語です。今の若者向けのアニメやマンガや小説には、恋愛と部活と制服であふれているのに、まず直接的には使われません。まるで何かの呪いのコトバかなにかのようです。
ここ数年じゃあ「ビバ・ヒル青春白書」と「青春アミーゴ」くらいしか思い浮かびませんが、これらも「化石」(これも死語!)としての用例ですねえ。
直接的には「人生の春」であって、若い時期のヴィヴィッドな感性の輝きとかほろ苦さとかの、まあイロイロ・・・。そういうものは今の若者にも普通にあるでしょうから、ぜんぜん使っても良さそうなのですが、どうも今の時代しっくりきません。
そこまで忌み嫌うのは、文芸・思想史的なニュアンスや70年代学園ドラマの古くささだけではないように思うのです。
その違和感は「限られた短い時間ゆえの貴重さ」という感覚なのではないでしょうか。日ごろ子どもたちに説教したいことなんていうのは、ざっくりいえば「短い日々を大切に生きれや」みたいなことです。
なのに「青春」は短いのだとしたら、どこで終わりなのか?の線が、何とも引きにくくて説得力がないのです。卒業とか年齢とか結婚とか、あまりにもぼんやりしてしまいます。なにせ、きょうびは「男子・女子」がアラフォーに手が届いてます。違った意味で「生涯青春」ってやつですね・・・。おそろしいことです。
不思議なことに、息子がぼくの昔話に耳を貸してくれないことが、だんだんと多くなってきます。そりゃ30年も40年も前の話はウザイし理解できないでしょうけど、彼らは現在を生きているんだなあと、あらためて思います。「青春」の決着をつけるのは、親や世間ではなくてやはり本人自身なんでしょうね。
(せきね けんいち)
親子スタイルアドバイス
■お勧めの対象
親の人
■コメント
昔話は封印してあるから宝物なのかもしれませんね。
(といいつつ復刻版CDとかは増える一方。そうそう封印できないのは親だったりして・・・。)
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「青春」って、はじける若さ(死語)に、ちょっとした痛みや悲しみを伴っているというイメージ。このイメージにふさわしい若者は、最近少ない気がするなー。団塊世代の若者時代の青春人口率を80%だとしたら、今の若者の青春人口率は、50%くらいの感じかな。
昨日松本隆が、『石原裕次郎のころの、日活のような痛々しい青春を書きたかった』っていうようなことを言っていました。「痛々しい青春」って、まさに青春のイメージだと思いました。
そういえば今朝、仲代達也が、青春に対して「白秋」という表現をしていましたよ。私は初めて聞きました。