新年度が始まりました。決して節目の年というわけではないのですが、二日がかりで研究室の大掃除と模様替えをしたり、スーツや靴を新調したり、例年以上に気分一新を心がけた年度末でした。
このコラムではたびたび、メディア規制のことに話してきましたが、"ノーテレビデイ(No TV Day)"といった運動やケータイ所持規制条例など、自治体(ときには政府)による規制介入を論じるさい、対にして考えておかないといけないのは、どうして今、青少年のリテラシー、家庭や学校におけるコントロールに(これまで通り)すべてを委ねることができなくなっている(と見なされている)のかという背景です。規制の是非ばかりを問うあまり、自己決定と規制介入がトレードオフの関係にあるという当たり前の事実が、しばしば見失われがちだと思うのです。
今日は抽象的な話になってしまって申し訳ないのですが・・・対処しなければならない課題がひとつあるとして、それが難解あるいは複雑であればあるほど、解決に向けて専門知識がたくさん動員されることになります。一般の人びとが自律的に自己決定することが合理的でなくなり、専門家の知識にしたがうことこそが合理的であると考えられるようになります。このことを「知識の権威主義」と呼ぶことがあります。その反対に、社会が民主的であるためには、個人の自律的な自己決定こそを最大限に保証し、知識の権威に追従することをやめようという考え方もあり、これは「知識の自由主義」と呼ばれます。
どちらの考え方も一理あるのですが、いずれか一方に偏ってしまうのは望ましくありません。専門家が追求して得られた知識が、あらかじめ一般の人びとが知りたいと願い、活用したいと思っている知識とぴったり一致しているのだったら、「知識の権威主義」は正しいのかもしれません。だけど、双方のあいだにずれがあるからこそ、世の中は一筋縄ではいかないのではないでしょうか。専門家による知識の追求は本来、限られた時間のなかで有限の資源にもとづいておこなわれるわけで、たとえば、規制の根拠を得るために蓄積された知識が、規制を望んでいない(あるいは関心がない)人びとにとって、とても説得力を持つはずがありません。当たり前のことですが。
それに対して、今日の日本社会ではむしろ、「知識の自由主義」のほうが理念としてしっくりくる人のほうが多いと思います。でもこちらも手放しで推奨できるものではありません。専門家の判断が一般の人びとにとって必ずしも合理的でないとしても、その権威にしたがわないで自己決定をおこなうということには、必ずリスクがともない(=専門家の言うことを聞かなかったツケがまわってくる、かもしれない)、それを引き受ける覚悟が求められるからです。
そこで、個人の自己決定をなるべく尊重しつつも、それにともなう甚大なリスクを回避するために、規制介入が望まれるという局面も現実にはあり得るでしょう。たとえば、医療におけるインフォームド・コンセントが推奨されるようになって久しいです。お医者さんが、診療によって得られた情報を患者さんに「正しく」伝え、治療のあり方について合意を得ましょうというのが、インフォームド・コンセントの考え方です。ただし、「正しく」伝えると言っても、お医者さんが医学の専門知と照らし合わせて導き出した知識を、シロウトである患者さんと共有するのはほとんど無理です。たとえ懇切丁寧に教えてもらったところで、医学的な話がそれほど理解できるわけでもないですし、複数ある治療法のひとつを患者さんが自分で選ぶことはできても、即刻入院しなければならない病状であるという医師の判断に対して、入院を拒否する自由は認められないのが普通です。入院しないという自己決定に対して、強制入院という規制介入が非難されることはあり得ないでしょう(それでも入院を拒否する人もいるでしょうけど、それはたぶん、インフォームド・コンセントとは別の次元の話です)。結局のところ、インフォームド・コンセントにもとづく合意といっても、患者さんに保証されている選択の余地はそれほど多くはなく、病院という制度のなかで、既に規制の網の目が張られているわけです。
すなわち、規制介入と自己決定は必ずしも二者択一ではなく、双方の動的な調停によって問題解決がはかられるのが自然なのだと思います。行政学の用語に「補完性の原理」という概念があります。地域主権の理念として90年代以降によく知られるようになった言葉で、個人の自己決定、家族や地域住民による合意形成を基本として、その範囲内で対応できないことがらに限って、さらに大きな単位の団体、すなわち自治体さらには国家の処置に委ねようという考え方のことです。これはあくまで理念に過ぎないですが、メディアの規制論議を考えるにあたって示唆的ではないでしょうか。政争においては「規制に賛成か反対か」という対立図式に落としこんでディベートがなされるのは当然ですが、これが「規制介入か自己決定か」という素朴な二元論に短絡しないことが大事だと思います。
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ところで今、この連載で掲げているテーマからして避けて通れない話題といえば、東京都青少年健全育成条例改正問題、通称「非実在青少年」規制問題でしょう。マンガやアニメに登場する18歳未満のキャラクターを「非実在青少年」と規定した上で、性的描写などの内容次第で青少年に対する販売を禁じるという改正案に対して、多くの漫画家やクリエイターをはじめ、研究者や文化人、ジャーナリストや弁護士など、さまざまな立場の人びとがいっせいに反対の声を上げ、3月のあいだ、インターネット上で大きな話題を集めました。もちろん出版業界も反対を表明しています。結局、都議会では継続審議という扱いになり、議論は6月まで先送りになったため、騒ぎは一時的に収束しています。改正案に反対する声は揃っていても、その論拠はきわめて多岐に渡っており、ここで一概にまとめることはできないので、まとめサイトを参考にしていただければと思います(「非実在青少年」で検索すれば、いくつもヒットします)。
僕がこれまでに話していたケータイ所持規制などの構図と重なる部分も多いのですが、表現規制、とりわけ性的表現の規制に関しては、まったく別の論点も浮上してきます。一連の騒動を振り返って具体的に論点整理するスタミナは持ち合わせていないので、またの機会にしたいと思いますが。
参考文献:
Fuller, Steve Social Epistemology, Indiana University Press, 1988.
木原英逸「専門性と公共性 --社会的認識論の観点から」小林傅司編『公共のための科学技術』玉川大学出版部、2002年
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