学校にも行けず、働くことも出来ないという子供がいる。
その子供は果たして「学校に行くことも、働くことも嫌い」なのであろうか?
嫌いなことは確かである。嫌いでなければ行けるわけだから。
だからといって、叱咤すればいいだろうのか?叱咤してもどうにもならないということは親が一番わかっているはず。
真に子供の望むものとはなんだろうか?
それは、恐らくは自分が生きていることが世の中にとって、何か意味があることを実感できることなのだと私は考えている。
彼はもっとも端的に表現された例が秋葉原の連続殺傷事件である。
彼は子供でも引きこもりでもないが、現代の思春期の青年の心理を端的に表現した例の一つと言っていい。
昔はこのような問題は起こりえなかった。
家には子供を置いておく余裕はなかったし、社会は成長期にあって労働力を否が応でも必要としていた。社会は労働を通じて社会と個人は互いに相互作用するものだということを教えてもくれた。
自分は何なのか?
ということは、他者との関わりを通じてしか体得できない。
他者と関わらなくていい、あるいは他者との関わりが希薄である、あるいは自分の努力が他者に何ら影響を及ぼさないとなると、自分の生きている意味がわからない。
いてもいなくても同じだということになる。
実際に、そのようなメッセージを社会は個人に対して発しているのだ。
生きていく意味を説かれても空しい。と悩んでいる者は思う。
引きこもり、若者の自殺、あるいは他殺は根が一つである。
自分が生きていて、生きていることが社会にとって意味があることが実感できないということが原因なのだ。
引きこもっている若者が、生きていくことの意味がないと思って、それに絶望しきってしまえば自殺するし、あるいは他人を殺すということは究極の自分の存在意義の表現だと思い、ついにはそれしかないと思えば他人を殺すことも場合によってはある。
実際に秋葉原の連続殺傷事件の加藤被告は、2ちゃんねるでは「神」とまで呼ばれているのはなぜか?
それは彼の行動に強い共感を感じるからに他ならない。
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